教育熱

前回の投稿から少し時間が経ってしまいましたが今回は「相続」、基「税務」とは全く異なる事柄について述べたいと思います。

それは・・・ズバリ「夢」と「教育」の相関性についてです!

何故いきなり?と思われるかもしれませんが、何を隠そう私の前職は「教員」であったからです!

よって、少なからず「教育」に関する事柄には職が変わっても常に関心を持って意識してアンテナを張っています。

時々刻々と変わる教育環境の変化には驚かされることが沢山ありますが、とりわけ日本の教育システムの脆弱さについては世界基準と比してあまりにも乖離してしまっているということを認めざるを得ない事柄が沢山ありました。

今回はその中でも私が「教職」に就いていた時、特に深刻な問題だなと思っていた事柄について投稿します。

それは日本人(児童、学生)の「職業観」を含む「夢」についての意識の脆弱さについてです。

私が現職の教員であった時、多くの学生(約3000名程度)を就職させるべく指導して来ました。

主に公務員になりたいという学生(高校卒業したての学生達が主)の就職、進路指導をしていた時のことです。

私が勤務していた学校は、テクニカルスクールであったので卒業すれば進学ではなく就職することが大前提となる学生達を指導していました。

その中には日本人だけでなく、留学生も沢山いました。

私は公務員希望の学生に特化したクラスを受け持っておりましたが、教室が近いという理由で別のコースの留学生とも日本人学生と同様、接触する機会が沢山ありました。

そこでまず感じたことは、留学生は「将来の夢」について語ることに全く抵抗感を持っていない子が殆どであるのに対して、日本人の学生はほぼ全ての学生が語ろうと(語れなかったのかもしれませんが・・・)しませんでした。

勿論、私がたまたまそういう学生ばかりを対応していたかもしれないと言われればそれまでのことかもしれませんが、事実私が受け持った3000名にも及ぶ学生の殆どが「夢」を語ることができず、また語ることなく卒業して行ってしまいました。

希望の職種に就くことができればそれが彼等の「夢」であると言えるのかもしれませんがその職種に就いて「何をどうしたいのか?」と聞くと、全員とは言いませんが明確に答えることがでない学生が殆どでした。

ここにこそ日本の職業教育の脆弱さがあるのではないかと思います。

つまり、自分は「何の為に何を学んでそれをどの様に活かしたいのか」ということが全く考えられないまま高校卒業までの時間を送って来たという帰来があるのです。

それがすぐに「悪」ということに直結する訳ではありませんが、これに対して留学生達は、彼等と接する日常の何気無い談話の時でも目を輝かせながら自身の「夢」を自信満々に語ってくれます。

時には聞いているこちら側が恥ずかしくなってしまう様な壮大な「夢」を語ってくれる留学生も多々いました。

ここにこそこの問題の根深い問題点があるのではないかと思います。

つまり、日本の風土においては「夢を語る」=「実現可能性のある夢を語るべき」という固定観念が幼い頃から既にかなり強固に植え付けられているのではないかと思います。

一見すると「現実的でない夢」を持つこと、況やその様な「夢」を語ることは周りからの嘲笑を誘い、「分を弁えた、身の丈に合った夢」とは認識されない戯言であるという一種の強迫観念を抱えたまま育つ環境が、本人だけでなく社会全体としてほぼ完璧に整備されてしまっているのだと思います。

それが故にいつの間にか、例えば小学校の極めて早い段階で「壮大な夢を持つこと」に対して、それは「いけないこと」という認識を自動的に持つ様になってしまっているのではないかと思います。

たとえば小学校時代からあまり勉強が得意でない子が「東京大学に行きたい」と考えることは「分不相応」という周りからの目線、意見に影響され、その子の可能性をかなり早い段階で潰してしまっているのかもしれません。

「もしかするとこの子はどこかで覚醒して大化けするかもしれない」という「可能性」の部分は端から考慮しないことが美徳とされている様な風潮は皆さんも感じたことはあるのではないでしょうか?

法治国家である現代日本においては「夢」を語ることは言論の自由の一部と解することもできるでしょうが、いつからそれが許されない社会に成り下がってしまったのでしょうか・・・。

だからこそ、今一度原点に立ち返って考えてみたいのです。

「夢を持つこと、持ち続けること、実現できる様に人知れず努力し続けること」は「素晴らしいこと」であると。

その「夢」があるからこそ、その「夢」を実現させる為の「実践的教育」が発達するのだと思います。

「教育は国家百年の大計」との管仲の言が、今尚色褪せず輝き続けているのは現代日本の若者が自身の「夢」に対する輝きを失いかけているからなのかもしれません。

管仲は鮑叔という人生最大の理解者がいたからこそ、彼の思想は輝きを失うことなく現代にも語り継がれ続けて来た訳であって、彼等のエピソードをもう少しマクロ的な目線に準えて考えると、個人個人の「夢」を信じて理解してくれる社会があったればこそ、その個人個人が輝ける社会創造の一助になるのではないかと思います。

以てそれがやがて我々の生活を精神的にも物質的にもより豊かにしてくれるのであろうと思います。

 

文責 松尾慎介